| 微笑み − 3 |
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「………」 ルーヴェは信じられないものを見るようにじっとシグリィを見つめてから―― やがて、ぼそぼそと「ごめん」と言った。 「……俺も、なんか、ちょっと……勘違いしてたみたいだ。ノエフがやってることは悪いことだって分かってて、止めなかったのは俺が悪い」 そして、「ほら、お前も!」と弟の頭を手で押さえつける。 ノエフは兄の手を振り払った。 「だ――だって、こいつも悪ぃんだよっ。ちっとも、ちっとも顔、動かないじゃんかっ、だからおれ……っ」 「ばか、そんなことお前――いや、た、たしかにその――ち、違、とにかくノエフ、謝れっ!」 「やだっ!」 争う兄弟を見つめて、シグリィはぼんやりと思い出していた。 以前、見たことがあった。――親から初めてもらった人形を、やたら邪険に扱う子供を。 母親に叱られ、泣きながらその子は言ったのだ――「だってなにもこたえてくれない」。 人形はそういうものだと、まだ分かっていなかったらしい。 人間に話しかければ、反応があるのが普通だ。 反応がなければ、無視されたと感じる。それは何もおかしなことではない。 少なくとも、シグリィがノエフに対してとった行動は、“それ”に近かっただろう。 「……ノエフ」 シグリィは幼い三男坊に、できる限りやわらかく声をかけた。 「悪かった。私は、表情を出すのが苦手なんだ。ノエフを無視していたわけじゃない。怒っていたわけでもないよ」 ノエフは沈黙した。 人形の前で泣いていた子供を見たとき、シグリィが気づいたことがあった。 あの子は人形が好きだったのだ。 「謝るのは今度でいいから、今は仕事を教えてくれると嬉しい」 手に持ったままだったスコップで地面をつつく。ルーヴェが弾かれたように背筋を伸ばし、 「あ、ああ。ええとそっちが片づいたら――あ、この子らの体を拭くのやってくれ。これノエフの仕事なんだけどさ」 おそらくわざと、ノエフと関わる仕事を促したのだろう。弟の背中を押し、「ほら、教えてやれよ」と前に突き出す。 ノエフはシグリィの前に押し出されても、ずっとふくれっ面をしていた。それでも反省はしたのか、仕事は教えてくれた。 やがて牛乳配達に行っていた面々が戻ってくる頃には、清掃は大方終わっていた。 小屋から出て深呼吸をする。今は、冷たい空気もただひたすらにおいしい。 「お疲れ様ですシグリィ様。大丈夫でしたか?」 すぐさまこちらを気遣うカミルに、うん、とうなずいて返す。 「大丈夫、ルーヴェにもノエフにも、丁寧に教えてもらった」 それを聞いて「おう」とうなずいたのは、兄弟の父親だ。 シグリィの手足や前かけが汚れているのを見て、それがちゃんと手伝った証拠だと考えたのだろう。家の主は満足げにシグリィの肩に手を置いて、 「ぼっちゃん、よくやってくれたみたいだな。ありがとよ」 そう言い、大きな笑みを見せてくれた。 シグリィはその顔を見上げ、内心でため息をついた。 こう言ってくれる父親のことももちろん、何だかんだでしっかりと仕事を教えてくれたルーヴェとノエフのことを、本当にありがたいと思う。 ――自分も笑って返すことさえできれば。 ノエフも、最後までふくれっ面をせずに済んだのだろうに。 今も、シグリィのことをうかがうようにずっと見ていながら、シグリィがそちらを見るとぷいっと目をそらしてしまう。そこで次男に小突かれて、ついにはその場から逃げだしてしまった三男を見送り、シグリィはもう一度自分の頬をつねってみた。 そのとき、カミルが身をかがめ、そっと囁いた。 「無理に表情を作ろうとする必要はありません、シグリィ様。……それよりも今のあなたには、見ることのほうが大切でしょう」 「見る?」 「ええ。他人の表情というものは伝染するんです。暗い顔の前では暗い顔が、笑顔の前では、笑顔が生まれますから。だから大丈夫です、今のあなたは――」 そこで少し、ためらうような間があった。 ふと気配を感じて視線を送ると、牧場の外から軽やかに走ってくる人影が見えた。こちらに向かってまっすぐと。 「……尽きることなく表情を動かしている人間が、そばにいますから」 「シグリィ様ー、お仕事できましたー!?」 風にのって跳ねるセレンの声。輝かんばかりに活き活きとした彼女の表情に、シグリィは目を細めた。 ――太陽の光は、生き物にまんべんなく影響を与える。 その明るさに焦がれる気持ちはたしかだが。 「……彼女の光は、私には強すぎるような気がする」 自分が彼女のように笑っているところなど想像ができない。思わずそうもらすと、カミルは音を立てずに笑った。 「焦ることはありませんよ」 そう言い添えた青年に、シグリィはただうなずいた。 北国の夜は早い―― 夕食を終えて、シグリィは部屋に引っこんだ。それはいつものことだったが、今日に限っては別に人を避けたわけではない。午後に訪れた好事家の家で、思ったよりもたくさんの本を貸してもらえたため、早く読みたかったのだ。 カミルはまだ家族の手伝いをしている。セレンはおそらく、また夫人とおしゃべりに興じているのだろう。 部屋にこもって読書にふけっていたシグリィは、ふと喉の渇きを覚えて本から顔を上げた。 今は何時だろうか―― もうかなり時間が経っているような気がするのに、カミルもセレンもまだ部屋に戻ってきていない。時間を知りたくても、窓は全部閉め切っている。この部屋には時計がないのだ。 シグリィは読みかけの本を置いて、部屋から出た。 静まり返った廊下には、居間の灯りが射し込んでいる。人の話し声が聞こえない。 (もう寝る時間なのか?) 首をかしげた。今夜はまだ、入浴をどうするかも聞いていないのに。 (でも居間の灯りはついてる。とにかく行ってみるか) 一番灯りの強い部屋に足を踏み入れかけ、シグリィは立ち止まった。 空気が重かった。 ダイニングの椅子に腰かけた夫人(彼女はアニシスという。何となく名前を呼ぶタイミングがないのだが)が、ぐったりと肩を落とし、両手で顔を覆っていた。その両脇にいるのは長男と次男だ。長男はテーブルの上のランプの加減をせわしなくたしかめ、次男――ルーヴェはしきりに母の肩を揺さぶって、何事かを話しかけている。 「大丈夫だって母さん、もう見つかるよ。そんな遠くまで行きっこないんだから――」 ルーヴェの言葉を聞きとって、シグリィは察した。 誰かがいなくなったのか。 誰が? この場にいないのは自分の連れたちと、一家の父親と――三男ノエフ。 ここの家の兄弟は元気がよすぎて、毎日夕食が終わってからも外に飛びだして行くのが普通だ。すでに陽が落ちていても、である。もちろん“外”で遊ぶのはいくらなんでも危なすぎる。母親の話すところによると、友達の家に遊びにいっているということらしい。 その友達の家は、三軒先にある。姿を消すことができるほど遠くはない。 何があったのだろうか。 「あの」 シグリィは声をかけてみた。 弾かれたように、居間の三人がはっと顔を上げた。いい報せを待っていた彼らは、戸口にいるのがシグリィだと分かり、落胆の色を見せた。 空気がまた一段と重苦しくなってしまった。シグリィは二の句が継げず、沈黙した。こういうときは、どうしたらいいのだろう? 「シグリィ」 ルーヴェが母親の横から立ち上がった。「悪い、今ちょっとさ……あ、なんか用あった? もう寝てもいいぜ?」 はは、と笑う顔に無理がある。多分、とっさに心配かけまいとしたのだろう。 「いや……」 「あ! そうか風呂まだだっけ!? 悪い、今から用意するんでもよけりゃ沸かしてくるから!」 「いや、いい」 首を振り、シグリィは彼らに近づいた。 母親は再び顔を伏せてしまった。昼間セレンと話していたときの明るさは、見る影もない。 「ノエフが、どうかしたんですか?」 訊いた。 ルーヴェがぎくりと肩をこわばらせ、それから諦めたようにため息をついた。 「ああ、見てりゃ分かるよな……うん。いや、ノエフがいなくなっちまったもんだから……」 歯切れ悪くそう答える。「俺らと一緒に一度帰ってきたのに、知らない内にまた出てったらしいんだよ」と。 「それでカミルとセレンは……」 「二人とも、うちの父さんと一緒に捜しに行ってくれてんだ。悪い」 シグリィはもう一度首を振った。 「いい、当然だから。……ノエフの行き先に、心当たりは?」 「分かんねえ」 ルーヴェは心底弱り切った表情で天井を仰いだ。「あいつは割とあっちこっちふらふらするほうだけどさ……俺らから極端に離れるようなことは、今までしたことねーんだ。なんで今日に限って突然一人で行動したのか、さっぱり分かんねえ」 「さらわれた可能性は?」 シグリィの言葉に、母子三人がぎょっとした顔になる。 「まさか! こんな小さな村に人さらいなんかいねーって……! 何の得があるんだよ!?」 「そうか? こういう村だからこそあえて狙われるということもあると思う」 「い、いたとしてもな、よそものはすぐ見つかるぜっ。ほら、俺ら玄武だもんよ――」 親指で自分の背中を指す仕種。ああ、とシグリィはうなずいた。 そうか、ここは北だ。彼らは揃って玄武の加護を受けているのだ。自分らの縄張りに異質なものが入りこめばすぐに察知する。排他的なラティシェリ神の性格が能力に表れているらしい。 現にシグリィたちがこの村に近づいたときも、すぐに察知し先回りして出迎えた村人たちに、危うく攻撃されかけたのだ。この地方では、そういうことが頻繁にある。 人さらいの可能性が皆無というわけではないが――やはりノエフが自分から出て行ったと思うほうが確率が高い。 「……他に、何か変わったことは? ノエフが変なことを言っていたとか、何かを気にしていたとか」 三人の顔を順ぐりに見ながら、シグリィは問うた。 「ノエフが……?」 母親も顔を上げ、当惑した表情を浮かべる。兄弟は顔を見合わせた。 「……変、っていえば」 ためらいがちに口を開いたのは長男だった。今まで一度も名前を呼びあったことはないが、リージンという名前だったはずだ。 十代半ばの彼は、ルーヴェよりずっと大人しい。自信なさげにぼそぼそと喋る。 「……あいつがグリオットさんの家に行きたいって言い出したのは、たしかに変……」 「グリオットさんの家に?」 午後にシグリィも世話になった好事家のことだ。「何のために? 本ですか?」 「そう、本……だから、夕飯終わった後に俺ら三人でグリオットさんちに行った……けど」 「ノエフがそこでどんな本を読んだのか分かりませんか?」 「あいつはなんかごそごそ本さがしてたよ。いや、でも結局なに探してたのか分わかんなかったんだけど」 ルーヴェが悔しそうに唇を噛んだ。――そこで弟が何を探していたのかが分かれば、手がかりになることに気づいたのだろう。 また母子の上に暗い沈黙が落ちる。 シグリィはあえて、口に出して思考した。 「グリオットさんの家にある本と言えば、物語よりも記録の類――風土記、個人による歴史本。単純に考えて、ノエフは調べものをしたかったんじゃないかな」 歴史書については、専門家が編纂したものではないためその内容の真偽のほどが定かではない。だが、風土記についてはかなりしっかりした本があった。 「そして多分、目的のものをちゃんと調べられたんだろう。だから一人でいなくなった。……ノエフはどのくらい文字が読める?」 三男はシグリィより一つか二つ年下だ。難しい文章が得意とも思えない。 案の定、「あいつはあんま本読まないしなあ」と頭をかきながらルーヴェが言った。 そして、考えることでようやくわずかに元気が出てきたのか、母親アニシスが「あの子はねえ」とシグリィに困ったような目を向けた。 「字はきらいなんだけど、絵は好きなの。絵に興味を持てば、それについてる説明文とかを読みたがったのよ。だから地図とかに載ってる文章なら、多少は読めるようになっているわ」 「地図」 それだ。シグリィはうなずいた。 「ノエフは地図で何かを確認したのかもしれない。それが何か心当たりはありますか?――じゃあ、グリオットさんに尋ねてみるのがいいかもしれない。今からでも――」 と、ふと気配に気づき、素早く視線を走らせる。家の戸口の方角―― 玄関が開いた。入ってきた気配に、シグリィは力を抜いた。よく知った気配だ。 飛びこんできたカミルは、少し青ざめているように見えた。意外な顔色だった。彼はちょっとやそっとのことでは動揺を表に出すことはないと思っていたのだが。 「シグリィ様、いらしたんですか。報せずに出かけて申し訳あ――」 少年の顔を見るなり詫びようとしたカミルを制し、 「そんなことより、ノエフは?」 「――はい。まだ見つかっていません。……シグリィ様、それについて少しお話が」 カミルが目配せをしてくる。すぐに母子から離れ彼の元へ行ったシグリィの耳元に、青年は素早く囁いた。 「セレンもいなくなりました。村の外に向かって走っていったきり、約束の時間になっても戻ってきません」 |
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