月闇の扉 - sideB-5
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 小舟に揺られている間、夢を見ているようだった。
 ――衣装がくしゃくしゃのこのさまを見て、弟たちや高官たちはなんと思うだろう。
 神の声に従って聖水くぐりをした、とでも言えば、皆納得するだろう。
 父王の御魂については――
 話すつもりは毛頭ないが、誰かに聞いて欲しい気もする。こればかりはリーディナにもすがれないのが、とても辛かった。リーディナは敬虔なアプロス信者だ。
 船頭の持つ櫂が、音も立てずに船を漕ぐ。波の音は遠いのに、なぜか耳元で聞こえるようだ。
 この偉大なる海で、自分は今なんと小さな存在であることだろう……
 姫様、国土が見えて参りましたと。リーディナの声でまた目を上げた。神殿を見つけた時もそうだった。促されなければ、自分は行く先を見つけられない。
 シレジアの豊穣の大地が――
 うっすらと線を見せている。
 ざぶん……ざぶん……

 不意に視界に黒い影が走った。
 リーディナがパチンと指を鳴らした。問答無用の魔力の気配。
 ぼっと火の玉が上がった。ぼとり、と小舟の中に落ちてくる。魔力とはすなわち具現能力。術者がそういう効果を付加しない限り、目標以外のものを燃やすことはない。
 火に包まれて、やがて消え去った存在に、ラナーニャは呆然とする。
「“迷い子”……?」
 見ればシレジアの方角から、次々と黒い影が飛んでくる。
「姫様ご安心を」
 リーディナが立ち上がった。この舟の中で、バランスを取るのも苦労するだろうに、彼女の背は凛々しかった。
「必ずお護りします」
「………」
 ラナーニャはきつく唇を噛んだ。
 それから、枯れた声でつぶやいた。
「ああ……頼む」
 そしてそこからはリーディナの独壇場。
「火龍演舞!」
 炎の渦が翼を持つケダモノを巻き込み、次々と炎上させていく。
 本来魔力を形にするのに詠唱はいらない。
 だが、詠唱――あるいは術者のつけた魔法名を声に出すことで、より“形”は明確になる。
 具現化の精度を高めるために、声は欠かせない。
「火球輪舞!」
 火の玉がくるくると回って広範囲に広がっていく。いつの間にだろう、小舟を囲むように“迷い子”が集まって来ていた。
 一匹残らず燃え上がる獣。中には空中で塵となりきれず、海に落ちて水面を揺らし、小さな舟を大きく揺さぶるものもいる。
 あちこちで閃光が走り、火の玉が弾け、まるで自分が花火の中にいるようだ。
 やがて、リーディナ一人の働きで、視界を埋めていた黒い影が消え去った。
 しかしリーディナの体に漲る緊張は解けない。油断なく辺りを見渡しながら、「姫様――」とラナーニャに声を向ける。
「少々、様子がおかしいようです」
「……リーディナ?」
「“迷い子”のまとう空気が、通常のものと少し違ったように思います」
 ラナーニャは何も応えることができなかった。彼女には全く分からなかったからだ。
 この儀式用小舟が襲われることはよくあることだ。歴史上、それで転覆してしまった例もある。巫女が死んでしまった例もある。
 しかし、リーディナは何かを振り切るように首を横に振った。
「船頭! 急ぎなさい!」
 リーディナの命に、船頭がゆっくりと頭を下げる。リーディナはすっとかがみこんだ。ラナーニャに視線を合わせるように。
「姫様、いいですか。父王のおっしゃられたことを忘れずに」
「な……にを? 何を言い出したんだ? リーディナ」
「強く誇り高くあってください、姫様」
 駄々をこねるようにそう言ったラナーニャに、リーディナは微笑んでみせる。
「大丈夫です。わたしは最後まであなたのお傍を離れません」
 最後? 何が最後?
 恐ろしい何かが迫ってくる。リーディナの微笑みの奥に、どうしようもない悲しみが見えたから――

 シレジア島に着いたのは、もう太陽が落ちた後のことだ。
 小舟が船着場に着いたとき。
 そこで意外な顔を見た。
「お帰りなさい、姉様!」
「クローディア……?」
 無邪気な黒髪、黒瞳の少女が手を差し伸べて、小舟から降りようという姉をエスコートしようとしている。
 馬鹿な、どうして分かったんだ? 予定より早く帰ってきたというのに。
 そう思って、妹の手を取れずにいたラナーニャに、くすりとクローディアは微笑んだ。
 とても十四歳には思えない艶冶えんやな表情に、姉姫は恐れを感じる。
「……大好きな姉様のことなら、どんな遠くにいたって分かってよ」
「姫様、舟からお降り下さい」
 リーディナがせかしている。慌ててラナーニャは舟から降りた。自分一人の足で。
「リーディナ、姉様の護衛ご苦労様」
 尊大な態度でクローディアは言った。「相変わらずお前は有能だわ」
「姫様を護るのはわたしの使命です」
「……ふふ、うふふ。私も姫なのに。あなたは私を姫と呼んだことは一度もないわね」
 クローディアは気分を害した様子もなく、むしろ面白そうにそう言った。
 妹姫はくるんとその場を回った。ラナーニャは訝しく思った。クローディアはいやに着飾っている――
 髪と瞳に相応しい、真っ黒のドレス。夜闇にまぎれてしまいそうだ。
「クローディア、その服装はなんだ?」
「さすが姉様、お気づきね」
 クローディアはうふふふ、と胸に飾った美しい金細工の蝶のモチーフをいじりながら、
「今、城では宴を催しているのよ」
「宴……?」
 こんな日に?
 王族が亡くなったら数日間、喪に服して、祝い事、宴を避けるのが通例なのに。
「ふ――不謹慎だぞ。皆、何をやっているんだ!」
「あらだって、新しい王の誕生を祝わなければならないじゃない」
「私は王になるとは言っていない!」
 そう言った瞬間、クローディアは高らかに笑った。
 夜陰に響くような、子供にありがちのきんきんとした、高い――それでいて貴婦人が高笑いをするような、どこか上品な――
「――姉様、宴に出ましょう?」
 クローディアが再び手を差し出す。
 リーディナがすっと姉妹の間に入った。
「姫様はわたしがエスコート致します。クローディア様、誰か護衛がいらっしゃるのでしょう? その方とともにお帰り下さいませ」
「あら、変なことを言うのねリーディナ」
 ふふっとクローディアは微笑んだ。
「私に護衛など必要ないわ。よく知っているくせに」
 ふとどこからか光が差して――よく見ると船頭が点けたランプだった――クローディアの姿を照らす。
 ラナーニャははっと息を呑む。妹の右肩。朱雀の《印》。
 そして。
「まあいいわ。ついてきてね、姉様」
 くるりと身を翻した妹のドレスは、まるで大人のイブニングドレスのように背中がぱっくりと開いていた。
 その背には――
 玄武の、《印》。

 妹の背を追って、リーディナとともに道を急ぐ。
 妹の他、誰も迎えに来ている様子はなかった。ではなぜ、クローディアだけ出てきたのか?
 オーディはどうしている? ヴァディシス叔父は?
 やがて城が見えて、ラナーニャは目を見張った。
 城の窓という窓から、明るい光が漏れ出でている。まるでライトアップされたかのように、色んな色で窓が光っていた。
「ねえ、見て。城も着飾ったのよ」
 クローディアは無邪気に言った。
「不謹慎だ!」
 ラナーニャは怒鳴った。
 クローディアは軽く振り向いた。つん、と唇を突き出していた。
「頭がおかたいわ。姉様は」
「そういう問題じゃなく……!」
「暗く沈んでばかりでは、お父様も喜ばない。そうは思いません?」
 ふふと微笑んだクローディアの瞳。
 吸い込まれてしまったら、そのまま永遠に落ち続けることになるような、深い深い闇の色。
 ラナーニャの体に悪寒が走った。けれど目をそらすことができず、ただ身を翻した妹の背だけを追いかける。
 やがて城門の前に立ち――
 開け放たれたそこに、さらにラナーニャは驚きを隠せなくなった。
「姉様が入りやすいように、開けたままにしておいたのよ」
 門の奥からは、眩しくてたまらない明かりが差している。ラナーニャは目がくらんだ。腕を顔の前にかざして、
「何をこんな……」
 弱々しい声を出した。驚きのし通しで、もう強く出られない。
「さ、姉様。門をくぐりましょ」
 クローディアが無邪気にぴょん、と普段なら閉ざされている境界線を飛び越えた。
 そして境界線の向こうで、笑顔で手招きした。
「さあ、姉様!」
 ふらりと――
 引き寄せられるように、足が向かう。
 しかし、すぐさま背後から、ぐいっと肩を引っ張られた。
「姫様! お気をたしかに!」
「リー……リーディナ……」
「姫様、お気をたしかに」
 リーディナはラナーニャの前に立ち、クローディアと対峙する。
「……たしか玄武の術に、相手を操るものがございましたね、クローディア様」
 クローディアはつまらなそうな顔をして、答えない。
 ラナーニャはぞっとした。
 周囲から、またたくさんの気配が集まってきた。外から、だけではない。クローディアの背後、城門の奥からも――!
「ほら。姉様が早くしないから、お腹をすかせて出てきてしまったではないの」
 クローディアはそう言った。そして、
「はいはい、お前たち。今極上のエサをあげるからお上品にね」
 まるで、集まってきたケダモノに声をかけるように。
 応えるように、“迷い子”たちは一斉に吼えた。
 リーディナが柳眉を寄せる。
「これは使いたくなかったのですが……」
 衣装の中から、二振りの剣を取り出した。
 ラナーニャははっとした。リーディナが持っていたのは、ラナーニャ愛用の剣だったのだ。
「姫様、申し訳ございませんが、自衛も行って下さいませ」
 リーディナは後ろ手にその二振りの剣を渡してくる。
 ラナーニャはとっさにそれらを取った。片手剣よりも若干リーチが短い分、軽い剣。素早さと技を駆使して使う剣。
 腕力の無さをカバーすることを突き詰めて、ラナーニャは双剣使いとなった。父王がそれを薦めてくれたくれたから――
「やあね姉様」
 クローディアが嫣然えんぜんと微笑んだ。
「抗うなんてみっともない真似はしないでちょうだいな。――大人しくしていた方が、苦しまずに済んでよ?」
 ラナーニャの手元に、じっとりと汗がにじんだ。
 柄を握りしめ、ラナーニャはうめく。
「……なぜ“迷い子”と会話が出来る」
 ふふっとクローディアは含んだように笑った。
「だって当然でしょう? “迷い子”は元は人間なのよ」

 ――それは死んだ人々の魂が地上へと降り立った姿

 ざわざわと胸が騒ぐ。
 それ以上考えてはいけないと、心が全力で拒否している。何が怖い? それに気づいてはいけない――
 混濁し始めた意識を気合で振り払おうとした時、クローディアは何でもないことのように言った。
「姉様はひとつ失敗を犯したわ。――お父様は、こうやって“迷い子”となって現世に戻ってくることができないのでしょう」
 一瞬で、闇の淵に落ちるような落下感。
 すべてが真っ黒になった。
「ああかわいそうなお父様……」
 黒の世界で浮かび上がるクローディアは、まるで神殿内に鎮座するアプロス女神像のように、かいなを曲げた。
「せめて、お仲間を増やして差し上げますわ」
 その黒い瞳が――狂気の色を灯す。
「さあ! 宴を始めましょう!」

 それは狂ったとある一国での異変の始まり。
 世界をも震撼させる出来事の始まり。

 
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