| 月闇の扉 - 第一章12 |
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――君のことは、どう呼べばいい? ――え……? はっきりと名前を尋ねなかったのは、何となく直接記憶を刺激するようなことを避けたかったからだ。 問われて彼女は曖昧に、けれどどこかほっとしたように、そっと表情を緩ませた。 小さく首を振って、 ――まだ、呼んでほしくない、と。 それはとても小さな声で。 マーサたちが到着し、「もう少しここで」と言いかけたシグリィに、少女は「もう大丈夫」と言った。 「平気だ、ありがとう。……あなた方は、私を助けてくれた方たちだな」 とうに涙は乾き、落ちついた表情でマーサたちに向き直る。 「家から逃げ出してすまない。捜してくださって、ありがとうございます」 深々と頭を下げる。 ハヤナとチェッタは面食らったように押し黙った。少し後ろで見ていたジオが「まァ無事でよかったぁな」とがりがりと後頭部をかいた。彼なりに喜んでいるようだ。 マーサだけは、心配そうに少女の顔をうかがい見て、 「怪我の具合は……? 大丈夫ですか?」 「……平気です」 ぎこちない言い方に強がりを感じ取り、シグリィは隣で苦笑した。 「無理をするな。とにかく村に戻ろう――ああカミル、おぶってやってくれないか?」 連れの一人に言いつける。 はい、と進み出た長身の男を見て、少女は驚いたように一歩退いた。 「あ、いや……っ、平気だ! 自分で歩けるから……」 頬を赤くしておろおろと手をふる。セレンが、うひひひとヘンな笑い方をした。 「カミルったら、怖がられてるじゃない。きっと内面の鬼を見破られたのよーぉ。人を見る目あるんだわ、この子」 「……どーゆーイミです……」 「え!? いや、違、そういうことじゃ――!」 慌てて否定しようと力をこめた少女は、急にふらついた。 すかさずシグリィが横から支えた。「あらあら」セレンも手を伸ばして少女の腕に触れ、にこりと笑った。 「ごめんね興奮させて。分かってるわ、怖いんじゃなくって照れただけよね?――あら、余計に赤くなっちゃった。かーわいーっ」 「いい加減にしておきなさいセレン、怪我人相手に」 「だってだってかわいいじゃない。ねえシグリィ様?」 自分の抱いた感想を隠すことなど滅多にない女である。シグリィは苦笑して、 「今はそれは置いておこう。……君も頼むから、おとなしくカミルに背負われてくれないか? その方が早く村に戻れるだろうから」 「……分かった」 消沈した様子で彼女はうなずいた。 少女がカミルの背におぶさり、全員で帰途につこうとするその前に、シグリィはもう一度海を振り返った。 遠い水平線の向こう。 彼には何も見えない。だが、きっと何かがある。 ――彼女の具合が落ちついたら、またここに来ようか。 「シグリィ様? 行きましょー」 「今行く」 セレンの呼ぶ声に応えて、シグリィは身を翻した。 マーサたち姉弟の家に戻ると、早速例の二階の客室に少女を送り、マーサとセレンが少女の怪我の手当てをすることになった。 ハヤナとチェッタは、村に新入りが来たことを村人に報せに走った。せっかく手が空いているのだからと、ジオも一緒に。 そんなわけで、シグリィはカミルと二人で一階の居間に残り、他の人々の役割が終わるのを待っていた。 手持無沙汰な時間。日当たりのいい窓際にもたれかかり、意味もなく窓の外を眺める。 そこからは村が一望できた。 相変わらず、しんとした村だ。大陸でシグリィたちが見てきた町や村と違い、人々が家の外で立ち話をしているようなことがない。 ただ、よく見ると広場のように場所を取られた部分があった。時間によっては、あそこに人が集まることもあるのかもしれない。 (……話を聞くことはできるだろうか?) マーサはことのほか親切だ。質問にはほとんど答えてくれる。 しかし、彼女一人の言葉では足りない。 ――シグリィとは離れたところに立っていたカミルが、ふと声をかけてきた。 「海岸で歌ってらっしゃいましたね。あれはシレジアの?」 「ああ、聴こえていたのか」 シグリィは視線を室内へ戻した。「彼女が歌っていたんだ」と言うと、カミルは眉をひそめた。 「では、彼女はシレジアの人間ですか。外見からすると不思議ではありませんが……」 「分からないが、可能性はあるな」 国を行き来する人間が激減した昨今、国を渡った混血児があまり生まれないため、たいていの人間はその外見で生まれが判断できる。 あの少女は肌が北国人特有の白ではない。 瞳の色が濃いのも、南に多い特徴だ。 そして何より、“シレジア人”の特徴―― すなわち美の女神アプロスの加護によって、見目麗しい人間が生まれやすいということ。 シグリィは出会ったばかりの少女の顔を思い描く。 (……たしかに、否定できないな) 「では彼女は、シレジアの方角を見ていたのかもしれませんね」 と、カミルは言った。 自分と同じ考えだ。シグリィは苦笑して、 「……彼女はここがどこだか分かっていなかった。シレジアがどの方角にあるのか分かるはずもない……単に海に惹かれただけかもしれない」 「それはそうですが」 カミルはシグリィの隣まで来て、窓の外を見やり、まぶしそうに目をすがめた。 「――人間にも、理屈では説明できない力はありますよ」 「………」 シグリィは視線を床に落とす。 陽光が床につくる光の波も、今は彼ら二人の体が遮って、奇妙な形になっている。 「最初にご覧になったときには、どんな様子だったのですか? 彼女は」 カミルは村を眺めながら訊いてきた。 「ああ……」 ――海辺の後ろ姿。 世界から浮いていた少女。物悲しい歌声を、そっと波音に寄せていた、あの。 今思い返してみれば、あの異質な雰囲気の理由のひとつが分かったような気がする。 「……彼女の姿にとても違和感を覚えた。本当にそこにいるのか疑問になるような。……今思うと、あれも普段の……私の癖が出ていたんだな」 「癖?」 「ああ。……彼女は、この村の“新入り”だとマーサさんは言った。つまり《印》がないんだ」 シグリィたちは、日頃人間の気配をさぐるのにまず《印》の波動を探す。 彼女にはそれがないのだ。 ――今、二階では少女の怪我の処置が進んでいる。 マーサの手伝いにいったセレンは、どさくさに紛れて《印》の有無を確認してくるだろうか。 「―――」 シグリィは静かに目を閉じる。 四神。この大陸を守護する四つ柱―― 陸地にも海にも、さまざまな生き物がいる。人間は、動く生き物――“動物”だ。それも、知恵と感情を持つきわめて特殊な生き物である。言語を扱い、火と道具を使い、群れて都市を築く。これほど高度な文明を確立した生き物は他にはいない。 けれど人間の身体能力は、この大きさの体をした動物の中では比べ物にならないほど低い。 むしろ、脆弱であるがゆえに知恵を持ったとも言える。 (知恵をつけるしかなかったんだろう……生き残るためには) 動物、植物。肉食獣、草食獣。あらゆる生き物たちとの競争の中で、人間は思考することを武器に選んだのかもしれない。 やがて、大陸には人間の天敵が生まれた。 “迷い子”―― 元は人間だと言われながら、彼らには心がない。ただただひたすらに欲求を満たすためだけに有る。迷いのないその行動からはすべての無駄が省かれ、肉体もそれに適したものとなる。 まずは獣として生まれ、 人を喰らうにつれて、自らの姿を人に近づけていく。 ――人間の群れに紛れ込むために。 人間の最大の無防備を、狙うために。 それが、“迷い子”の持つ唯一にして最大の『知恵』だ。 その純粋に凶器としてのみ働く力と知恵でもって、“迷い子”は人間をおびやかした。初めは少しずつ。徐々に勢力を増して。 彼らの力が人間の知恵による防御を上回るのに、さほど時間はかからなかった。 ――しるべは『月闇の扉』。“迷い子”のゆりかご―― あの黄金の扉が絶望の象徴となり、人々の心を蝕み喰らいつくそうとしていたそのとき。 四神は生まれた。もっとも弱き“動物”、人間を護るために。 二階から誰かが降りてくる気配で、シグリィは瞼を上げた。 「セレン。どうでしたか?」 カミルがすぐに振り向いて、開口一番尋ねた。 階段のほうを見ると、降りてきたのはセレン一人だけだった。 「うん、怪我は大丈夫みたい。でもしばらくは安静にしたほうがいいわね」 「マーサさんは?」 「まだ部屋よ。村のことについて、少し説明しておくって言って」 「そうか。――セレン、それは?」 シグリィはセレンが手にしているものを見て、もたれていた窓から体を起こした。 セレンは両手に抱えていた布を持ち上げた。 「服です、シグリィ様。あの子が見つかったときに着ていた服……というか、これはもう衣装ですねえ」 言いながら、ダイニングのテーブルにその衣装を広げる。丁寧にしわを直しながら、 「きれいな衣装ですよねー」 彼女はうれしそうに、ほうとため息をついた。 薄い布地を幾重にも重ねた、いわゆるローブの類だろう。あちこち汚れてしまい、もはや光沢はないが、絹でできているようだ。 セレンが「きれい」と言うのはその刺繍を指しているに違いなかった。色とりどりの細やかな刺繍。特に朱色の糸で胸元に縫い取られている図柄は…… 「……朱雀か」 朱の鳥。大陸を護る四つ柱のひとつ。 シグリィはその衣装を手に取り、手触りをたしかめた。 「シグリィ様。この布は」 カミルがわずかに緊張をはらんだ声で言いかける。 ああ、とシグリィはうなずいた。 「シレジアの織物だ。それも最高級の」 だが―― 気がかりなのは、その布がシレジアのものだということではなく。 胸元に朱雀が縫い取られていることでもなく。 裾の部分が見るも無残に破り裂かれていることだ。明らかに人外のものによる、おそらくは鋭い爪――で。 |
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