月闇の扉 - 第一章14
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 あの子のそばにいてあげてくれませんか、とマーサは言った。
 記憶喪失の少女から、まだ張りつめた糸のような緊張が消えていない。最低限の説明はしたから、一息入れさせたいのだ、と。
『お願いしますシグリィさん。今のところ、あなたが一番適任です』
(……別に私の前ではリラックスできるわけでもなさそうなんだが……)
「お茶のおかわりは?」
 ベッドで体を起こしたまま黙っている少女に、シグリィはそう声をかけた。
 少女は首を振った。口元がわずかに緩んでいた。
「大丈夫。もう喉は渇いてない」
「そうか」
 ベッドは窓辺にある。午前のまぶしく透明な陽射しに照らし出される彼女の顔色は、思ったよりも明るかった。疲労は色濃く残っていたが、頬の健康的な赤みに復調がうかがえる。
 ほんの少し笑うと、彼女は儚げな美しさを持った。
 まるで花開く前に嵐に打たれたつぼみが、今にも倒れそうなまま、それでも可憐さを失わないかのように。
 見ている側は手を差し伸べたくてたまらないのに、手を出せば折れてしまいそうで。
(……それでも、太陽も土も彼女を支えるだろう)
 弱っている者を助ける方法はひとつきりではない。シグリィはどうしようかと思案した。
 記憶がないとはいえ、聞きたいことはたくさんある。
 けれど、今はあまり質問攻めにしたくない。
「眠ってもいいと思う。今は休んだほうがいい」
 と勧めてみたが、彼女は視線を揺らして、「眠れないんだ」と小さく息をついた。
「そうか」
 シグリィはうなずいた。眠れないと言っている人間をむりに寝かしつけることもない。彼にも睡眠を誘う術の心得ぐらいはあったが、何となくそれを使う気になれない。
 多分、彼女がひどく心細そうだからだろう。
 今、彼女は卵から生まれたばかりの雛鳥だ。
 雛は最初に見た存在を親と思う。その存在からついて離れなくなる。離れれば生命がおびやかされるから、極端におびえる。
 シグリィはその親鳥に近い。強制的に睡眠の淵に落とすことはきっと“親に突き放される”のと同じだろう。少なくとも「眠っても大丈夫、いなくなったりしない」と信じさせることができるほど、彼らの間にまだ信頼関係はない。
 シグリィは沈黙がきらいではなかった。
 このまま黙って時間を過ごすのも、それはそれで悪くはないと思う。
 だが、彼女もそうとは限らない。
「体を動かしてもよくなったら、また海を見に行こう」
 そう言うと、彼女はかすかに嬉しそうに微笑んだ。
「海を見るのもいいし、また歌うのもいいな――」
 シグリィはあの海辺での時間を思い返しながら、うなずいた。「他の人間を連れて行くと気を遣いすぎるだろうし、二人で行こうか」
 カミルに負ぶわれるのにためらいを示し、セレンのからかいにまともにうろたえていた少女だ。見ているのは面白いのだが、それではあっという間に彼女の気力が尽きてしまうに違いない。
 マーサたちに対しては……別の意味で気疲れしそうな様子がある。案の定彼女は「二人きり」と言われて表情を曇らせた。
「でも、マーサたちが心配すると……思う。私が勝手にいなくなって、心配をかけたし迷惑もかけた。もう同じことは……」
「あらかじめ海に行くと言えば伝えればいい」
「でも」
「大丈夫」
 シグリィは空中に右手を掲げた。「これを置いていくから」
 怪訝な顔をした少女の目の前で、虚空に指先を小さく走らせる。何かの輪郭を描き出すような動きの後を追うように、光の線が宙で閃く。
 そして一瞬後には、それは明確に“形”になった。
 キラキラと金粉を散らす蝶。きらめきながら、彼らの間をひらひらと泳ぐ。
「これは目印に使う。命じれば離れたところからでも、術者の――つまり私のいるところまで飛んでいく。他にも、術者の身に何かあると反応する。ちなみに蝶以外にもなるよ」
 空中の蝶を掌で掴み取るようにして消し去り、再び虚空に踊る指先。次に描き出したのは、小鳥だった。
 小鳥の放つ光が、少女の見開かれた黒い瞳に映りこんだ。彼女は疲れを忘れたように、顔を輝かせた。
「すごい……! そんなことができるんだな……!」
「まあ本当は、別に動物や虫にしなくてもいいんだが。ただの球体が空を飛んで行って案内するだけじゃつまらないとセレンが言い張ったものだから」
 楽しそうに主の術に注文をつけるセレンと、それを苦々しい目で見ていたカミルを思い出し、苦笑した。
 元々本が好きで図鑑もよく見るシグリィにとっては、動物をそれらしい形で具現化するのはそれほど難しいことではない。何も完璧に再現する必要もない。やろうと思えば人間の姿にすることも可能だ。ただし具現対象が大きくなればなるほど、当たり前ながら比例して力を使う。“いざというときに追跡に使う”ための保険のような術に、いちいちそんな労力を消費していられない。
 この術は追跡以外でも、術者の自由に動かすことができる。
 シグリィの意思のままに小鳥は翼をはためかせ、少女の周りを一周した。
 それを嬉しそうに少女の視線が追う。彼女はしばし緊張を忘れたようだった。その口元がほころび、目元が和んでいる。
「これを残していけば、マーサさんたちも安心すると思う。まあ、絶対に私と一緒に行動することが前提だけれど――この術が感知するのはあくまで術者だけだから」
「――うん、シグリィと一緒に行く分には、構わない……」
 彼女は少し頬を染めて、こくりとうなずく。「……ありがとう」
「何が?」
「その、この術もだけど……海で一緒に歌ってくれた。嬉しかったんだ」
「ああ」
 アプロスの恋歌。シレジアのフォルクスリート。
 あれを歌いながら涙を流した目の前の少女を思い出し、シグリィは口をつぐんだ。
 ――どうして、あのとき泣いていたのだろう?
(聞けるはずがないな)
 小鳥は少女の肩にとまって落ち着いた。彼女は小鳥に指を差し出す。だがそれは力の集合体で、彼女からは触れることができない。肩に重みもないはずだ。
 それでも、少女は嬉しそうだった。
 その素直さはセレンによく似ていて、しかしどこかが違う。
 どこが違うのだろう。しげしげと少女の様子を観察したシグリィは、やがて気づいた。この子は完全なる“受け身”なのだ――
 自分から、望んではいない。その瞳の嬉しそうな色は、肩に光の鳥がとまったことをこの上ない幸運だとでも思っているような気配がある。
 幸運。自分の身の丈以上の幸。
 まるで、自らその光を拾いにいくのは罪だと信じているかのように。
「………」
 名前を呼ぼうとして、まだ名前がないことに気づいた。
 彼女は今も自分の呼び名を決めていない。
(……だが、名前はあった・・・
 彼女の着ていたあの衣装にひとつだけ――
 シレジアには、どんな服を着るときも常に一か所、同じものを身に着け続ける習慣がある。これは特に上流階級に見られる風習で、“どんな衣装を着ていても魂はひとつきり”であることの主張だという。
 それだけではない。髪留め、ピアス、指環、手袋、スカーフ……その身に危険が及んだとき、魂だけは避難させ宿らせるために仮宿としても。
 仮宿は魂がなじむものでなくてはいけない。だから普段から常に身に着ける。
 目の前の少女の場合は――
 腰布がどうやらそれであるらしかった。腰紐の上から巻く長い布だ。
 全部の衣装の中で、それにだけ名前らしき刺繍があったのだ。
 
 “Ranarnya”
 
(姓はついていなかった。それも珍しいことだが)
 大抵はフルネームで名前を入れるのだ。存在の自己主張なのだから。
 しかし、目の前の少女の風情を見ていると、フルネームがないのもなんとなくうなずけた。
 ――ラナーニャ。それが君の名前なのだろうか。
 口の中で形づくってみても、声には出さない。出せばその瞬間に、少女の姿が塵となって消えるかのような――そんな奇妙な幻想が、頭のどこかにちらついている。
 シグリィは自分で自分に苦笑した。
(らしくないな。今の私は)
 切り替えよう。必要なのは今目の前にいる少女と刻を過ごすこと。
 まだ小鳥と視線で戯れている少女に、何を話しかけるか。
「……そうだな。聞きたいことはあるか? 私に分かる範囲でなら答えるよ」
 考えた末、そう促した。
 少女は一瞬、きょとんとした。予想外だったのかもしれない。
 マーサも一方的に彼女を質問攻めにするようなことはしなかっただろうが、おそらく少女のほうが遠慮して聞けなかったことは多いだろう――そういう性格のように見える。だが、シグリィに対してならば言えることもあるかもしれない。マーサの言う“適任”とは、そういうことだ。
 少女は控えめにシグリィを見る。
 澄んだ黒い瞳は、迷うように揺れ続けている。
 シグリィは微笑んで、彼女の言葉を待った。
 やがて、彼女はためらいがちに口を開いた。
「……あの。マーサたちは《印》……がない、と聞いたんだ」
 記憶の大部分が失われていても、知識や一般常識のような部分は覚えているようだ。おそらく忘れたのは“己の経験”のみ。
 私も《印》がないらしい、と他人事のように小さくつぶやいた後、
「でも、シグリィたちは……《印》が、あるんだな。雰囲気が……違う」
「雰囲気?」
「ああ。その、何というか――変な言い方だけど、別世界の人間みたいだ」
 シグリィは軽く驚いた。
 それは彼が少女を海岸で見つけたときの印象と同じだ。なるほど、逆もまたしかりだったか。そう思って、興味深く相槌を打つ。
「そうかもしれないな」
「あ、いや、でも……シグリィだけは……」
 言葉を選ぶように視線をあちこちにさまよわせる。「シグリィだけは、違うんだ。カミルさんとセレンさんとジオさんもたしかに違うんだけど、……あなただけ違う」
 ――それは。
 シグリィはじっと目の前の少女を見つめた。
「《印》の種類が違うのかな……?」
 彼の様子には気づいていないのか、ぎこちなく小首をかしげて。
 ――まただ。また、何かが、彼の中にことりと落ちて、
(その違和感は、)
 《印》の種類のせいではない。それは――
「あの、すまない私が変なのかもしれない。別にシグリィがおかしいということじゃなくて」
 自信なさげに慌てて打ち消す彼女に、「いいや」とシグリィは微笑む。
「君は、ずいぶんと感覚が強いみたいだな」
 声だけはいつものように冷静に。
 けれど体の内側で、徐々に興奮が生まれる。
 柄にもない高揚感。そんな風に感じたと言う人間は、初めてだ。体の奥底から湧き上がってくる熱。このまま身を任せてしまいたくなる。
 六年旅をして、様々な人間に出会った。シグリィの外見や言動のせいで「変わっている」と見る人間は多くても、明確に「シグリィだけが違う」と言い当てた者はいない。
 そのことは、出会ったころのカミルやセレンでさえ気づかなかったのだ。
 ――あの二人以外の人間には知らせるつもりはなかった。むしろ知られてはいけないと思っていたから、隠すこと前提で常に行動してきた。そして誰もそのことに気づかなかった。だから言わずにここまで来た。
 ――……
 
『それを人々に告げるかどうかは、お前次第です……シグリィ。お前の判断で選びなさい』
 
(雰囲気だけで言い当てられたなら、もう仕方ないだろう?)
 あっさりと自分の中にあった壁が崩れ落ちる。きっと崩されるのを待っていたのだ。
 そう、待っていたのだ。
 目の前の少女の天性なのかもしれないし、あるいは彼女が過ごしてきた人生で培った能力なのかもしれない。否、その両方か――
 見つめる先、窓から降る光が、少女の輪郭を淡く輝かせている。
 彼女の向こう側に見えるのはぬけるような晴天。
「君は間違っていないよ。私は特殊なんだ」
 シグリィは指先を動かして、彼女の肩から小鳥を呼び寄せた。小鳥はシグリィの手の甲に乗り、毛づくろいをした。
「これは、朱雀の術だ。……だけど私は、普段は自分は青龍だと説明してきた。青龍の力が、旅には一番必要だから」
「え?」
「世の中には二つ《印》を持つ人間もいるから、青龍と朱雀までは知られてもいい。結界術を使うときは、他人には気づかれないようにしている。とは言っても臨機応変だな。――結界術は玄武の技だ。白虎の能力はうまく扱えないままで少し困ってる」
 すらすらとそこまで言うと、彼女は当惑した様子で首をかしげた。
 もって回った言い回しをしすぎたかもしれない。シグリィは自分に苦笑して、言い直した。
「つまり、私は四つ全部の《印》を持っている、極めて“特殊な存在”なんだ――君の感覚は正しいよ」
 窓からわずかばかりの風が入り、少女の髪を揺らした。
 
 
「……上でなに話してんだろ」
 チェッタは椅子に座り、ぶらぶらと足をぶらつかせながらぼやいていた。
 村人へ報告に走った三人のうち、チェッタの担当範囲が一番少なかったため、帰りが一番早かったのだ。帰ってきてみるとマーサはすでに二階の少女の手当を終え、一階に下りてきていた。
 あの記憶喪失の少女のそばには、今、旅人の少年がついている。
 マーサが任せたらしい。なぜ長姉がそんなことをしたのか、チェッタにはまったく理解できない。二階を見るように天井を仰いで、盛大にぼやく。
「二人っきりなんて、あぶねーよ」
「大丈夫よ」
 マーサがくすくすと笑う。チェッタは拳を振り回し力説した。
「マーサは甘い! なんでアイツをしんよーしてんだよ、おかしいだろ! アイツは《印》もちだぞ!」
「あらじゃあチェッタ君は私のことも信用できないのね」
 と、すかさず旅人の女――セレンとかなんとかいう女――が口を挟んできた。視線をそらし、悲しげにため息をつく。「おねーさん悲しい」
 チェッタはぐっと詰まった。
「バ、そ、そりゃお前だって《印》もちで――」
「私はチェッタ君のこと好きだし、もっと色々話したいんだけどなあ。きらわれてるなら、寂しいけど諦めようかな」
「いやそれは――ちょ、ま」
「セレン、何をバカなことを言ってるんですか」
「バカなことなんかじゃないわよーぅ。うっうっ悲しい。ねえカミル、私フラれちゃったどうしよう〜」
 あからさまな泣き真似をしながら、近くにいた旅の仲間――カミルとかなんとかいう男――の腕に寄りかかる。
 チェッタはムッとした。
「はなれろよ! 仕方ねーからしんよーしてやるし!」
 ズカズカと二人の間に割って入り、セレンの手を男の腕から引き離す。
 途端にセレンは華やかに笑みを浮かべた。
「さすがチェッタ君ね! 人を信じられる人間は強いのよー? いい男になるわ〜♪」
「お、おう。とーぜんだろっ」
 胸を張って鼻の下をこする。セレンは「かっこいい〜」などと言いながら、後ろから抱きついてきた。
 その瞬間にほのかな不思議な香りがして、チェッタはきゅうと胸をしぼられるような心地を味わった。
 ――朝に抱きしめられたときにも、この香りに包まれた。
 きっと香水かなんかだろう。派手な身なりのわりに、香り自体は大人しめだ。それでいて強く印象に残る……爽やかな海の香りに通じるような。
「……ふんっ」
 チェッタは「しんよーするのはお前だけだからなっ」と意味もなく強い口調で宣言した。
 目の前には、セレンの旅の仲間である男が、疲れた顔でこちらを見ながら立っている。その男にびしっと指をつきつけて、
「オレはいいオトコになるからなっ! ぜったいに!」
 男は答えなかった。
 代わりにマーサの、穏やかな声がした。
「いい男は人を指さしたりしません」
 ……チェッタは渋々と指を下ろした。
 ちょうどそのとき、玄関が開く音がした。
「ただいま……!」
 ハヤナの声がする。中にいる姉弟に声を届かせるために、いつものように大きな挨拶。
 けれど、その声にどこか暗い響きがある。
「ハヤナ、お帰りなさい。ジオには会った?――」
 言いながらマーサが出ていく。そして、
「―――」
 話し声が、した。
 聞き慣れたマーサとハナヤの声だけ、じゃない。あの声は――
「―――!」
 チェッタはセレンの腕を振りほどき、玄関まで飛びだした。
 あまりに勢いこんだために転びそうになったのを踏みとどまり、来客をにらみつけて声を上げる。
「なにしにきやがったんだ、ダッドレイ!」
「大人の話し合い。子供は引っこんでろ」
 灰色の瞳のダッドレイは、いつものようにひややかにチェッタを見返していた。

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